2022年12月一覧

19番の系譜

まえがき

この記事は、北海道コンサドーレ札幌 Advent Calendar 2022向けに書き下ろしたものです。相変わらずこんな時くらいしか更新しなくなって久しい当サイトですが、地味に開設から22年が経過しました。ここ数年以上、ほぼ開店休業みたいな状態ですが、たまの更新にお付き合いいただけるとうれしいです。人生の役には立たないと思いますが。

はじめに

サッカーに限らず、現在のプロスポーツにおける「背番号」というのは、それが選手その人に近い意味を持つことが珍しくありません。プロ野球を例に取ると、年代によって変わるとは思いますが、巨人の背番号1といえば王貞治さんを思い浮かべることが多いでしょうし、近鉄の15番といえばデービスだし、阪急の44番といえばブーマー、阪神の44番なら…言うまでもないですね。そう、セシ

(しばらくお待ちください)

Jリーグにおいては、1993年の開幕から数年は、その日のスタメン選手がポジションごとに1番~11番をつける変動番号制を採用していたこと、その後固定番号制になってからも、採番においては割と厳格なルールが存在し、必ずしも自由に番号をつけられるわけではない(たとえばJリーグで「背番号99」は事実上不可能)ことから、選手と背番号の結びつきは野球ほど強いわけではありませんが、それでも「このチームでこの背番号といえばこの人」みたいなイメージは、きっと皆さんにもあると思います。

前置きが長くなりましたが、毎回いろんなテーマで過去を含めたコンサドーレの選手を紹介してきたこのコーナー、今回はちょっと視点を変えて、「19番の系譜」として描いてみたいと思います。

なぜ19番か。それは、ただ私の好きな番号だからです。このアドベントカレンダーも、乗り遅れて既に埋まってしまっていた年を除いては、毎年19日に書いているくらいです。19が好きな理由については、明確な回答はできないのですが、昔好きだったおニャン子クラブの岩井由紀子さんの会員番号が19番だったからです(明確な回答)。皆さんだって19は好きですよね? 江戸時代のカリスマBL作家・十返舎も19ですし。

というわけで、今回はコンサドーレで19番をつけた選手を、何人かピックアップして紹介していこうかと思います。あ、一応先に言っておきますが、歴代の19番でも、お酒で失敗した人とかには触れないのでご了承ください。なんでか2人もいるけど。

伊藤優津樹(2000年~2001年)

「コンサドーレ最初の黄金期」と言われる2000年は、スタメンクラスの選手11人のうち、エースのエメルソンを含む、実に8人がレンタル選手という傭兵軍団でしたが、川崎フロンターレから加入した、この伊藤優津樹もその1人でした。それまではケガなどで試合出場こそあまり多くなかったものの、その高いテクニックに目をつけた当時の岡田監督の招きで札幌に加入、レギュラーの座を獲得しました。

いわゆる「10番」タイプの選手ながら、任されていたのは主に左ウイングバックのポジション。このタイプをワイドに置くのは、フィリップ・トルシエ日本代表監督と中村俊輔選手の例が有名ですが、岡ちゃんはそれより前にやっていたんですね。とはいえ、当初ウイングバックをやらせる予定だったアウミール選手が、左サイドに置くと何をしでかすかわからなかったので、苦肉の策だったのであろうと思いますが。

J1に昇格した2001年、立場としてはレンタル延長ながらも、本人も「勝負の年」と位置づけ望んだシーズンでしたが、再びケガに悩まされたこともあり、この年湘南ベルマーレから移籍してきた和波智広選手にポジションを明け渡すことが多くなり、その年限りで川崎に戻りました。ちなみに、2002年の川崎はJ2でしたが、この年昇格を果たした一方、2002年の札幌は何一つうまく行かないままJ2降格しているので、彼は2度昇格しながらも、降格は1度も経験していないのですね。

とはいえ川崎でもレギュラーポジションを掴むまでには至らず、2004年に現役を引退。現在はコーチとして子供たちの指導に当たっているようです。

ところで、彼は「伊藤」というありふれた姓のためにファーストネームで呼ばれることが多かったのですが、昔観戦記を書くのに「優津樹」という名前を一発変換できず、苦労した思い出があります。ただし、「伊藤」は日本で5番目に多い姓ですが、過去コンサドーレに所属した伊藤姓の選手は、現在のところ伊藤優津樹選手のみです。ちなみに、1位佐藤と4位田中が3人、2位鈴木は2人います。意外にも3位高橋は在籍ゼロです(選手以外なら、初代監督の高橋武夫氏がいます)。

鈴木智樹(2004年~2008年)

で、その鈴木さんのうちの一人(もう一人はあまり鈴木感のない鈴木武蔵)。アカデミーの頃から世代別代表の常連で、2001年にJヴィレッジで行われた日本クラブユースサッカー選手権でコンサドーレのU-18が準優勝を果たした際は、1年生ながらレギュラーとして活躍。3年生の時には二種登録で天皇杯に3試合出場し得点を挙げるなど、早くから期待されていた選手でした。

トップチームに昇格した年の札幌は、前年J1に昇格するために打った大ギャンブルが見事に失敗して、禁断のリセットスイッチを押したおかげでチームが大幅な若返りを計ったこともあって、1年目から多くの出場機会を掴みました。別名「ぽよんぽよん走り」と(一部で)呼ばれた特徴的なランニングフォームと、中長距離の正確なパスを武器に、2006年には主力として30試合以上に出場しましたが、育成重視だった…というよりかは、いろいろ目をつぶりながら、いる選手を育てるしかなかった柳下正明監督が退任し、守備・高さ重視の三浦俊哉監督が就任すると、守備はあまり得意ではなく、また上背もさほどなかった彼の出番は激減…どころかただの1試合すらチャンスを与えられなくなってしまいます。ケガなどもあったのでしょうが、これが干されじゃなくて何なんだと言わざるを得ないほどの極端な干されっぷりでした。時代が時代なら謀反を起こすレベルです。

結局2008年、三浦体制ではまったく出場機会がないまま契約満了。トライアウトに参加するなど現役続行の道も模索していたようですが、最終的には現役を引退し、クラブフロント入りの道を選択しました。

わずか5年間の現役生活で、19番をつけていたのは加入年の2004年のみ。その後16→14とつける番号が変わり、一番長くつけていた番号は14番の3年間なのですが、そのうち2年間は三浦体制下だったので、個人的にはルーキーイヤーの19番のイメージが強いということで、今回彼をチョイスしました。

現在、北海道コンサドーレ札幌のスカウト担当として、日本全国の有望な若手選手を言葉巧みにだま…いや勧誘し、北の大地に連れてきて労働させているS木T樹さんとは別人とされています。

石井謙伍(2005年~2009年、2014年~2017年)

こちらもアカデミー出身。S木T樹さんの1学年下に当たります。トップチームに昇格した2005年は、今となっては懐かしい「5段階計画」が始まったばかり。砂川誠さんが引率者として酷使される(去年の「ミスターコンサドーレの系譜」砂川誠の項を参照)一方で、多くの若手選手にチャンスが巡ってきた時代でした。

彼もまたそのひとりで、ルーキーイヤーから17試合に出場すると、翌年は37試合9得点、2007年も36試合6得点と結果を出し、J1昇格に貢献。順調なキャリアをスタートしたかに見えましたが、2008年はJ1の壁もあり、試合出場が激減。再びJ2となった2009年もあまり結果は残せず、その年のオフに契約満了となりました。

その後、移籍した愛媛FCで主力として活躍し、4シーズンプレイした後、2014年に札幌への凱旋「帰国」を成し遂げます。19番を背負ったのはこの復帰後から。個人的には、「札幌の19番」で最初に思い浮かべるのがこの人なんですが、実際、これまでで19番をつけていた期間が一番長かったのが石井ちゃんみたいです。

札幌復帰後は、主に愛媛にいる間に変わった右サイドを主戦場とし、豊富な運動量でチームに貢献しますが、シュートがあまり入らないのは復帰前と変わりませんでした。

彼の一番の特徴といえば、その人柄でしょう。以前からその「いいひとエピソード」はサポーターにも聞こえており、ストライカーとしては大成できなかったのも、いい人過ぎたのが理由なのだろうと思うほどでしたが、直接的に知ったのは、2014年11月1日の東京ヴェルディ戦でした。何度かTwitterには書いた話なのですが、「エスコートキッズ権利付きチケット」が売り出されてたので、それを勝って娘を送り込んだところ、ペアを組んでくれたのが石井ちゃん。冷たい雨の降りしきるあいにくの天気だったのですが、「大丈夫? 寒くない?」と気遣ってくれて、「優しかった」と娘も申しておりました。これから試合だというのに、ナチュラルに気を使える人なんだなぁと思いましたね。ちなみに、にもかかわらず「マエシュンが良かった」と申していた娘は、現在立派なクソサポーターとなり、先日大宮に来ていた岡村大八くんに会いに行ってゲーフラにサインをしてもらい、浮かれておりました。親の顔が見たい。

その後、札幌でのプレイは2017年までとなりますが、2018年に北海道胆振東部地震が発生した際は、被災地に駆けつけてボランティア活動を行うなど、相変わらずのぐう聖(「ぐうの音も出ないほどの聖人」の意)っぷりを発揮しました。2019年からは南葛SCでプレイしますが、十字靱帯断裂という大怪我を負ってしまい、復帰はしたものの2022年をもって現役を引退。現在はその人柄を生かして、コンサドーレの契約営業マンとして活躍しています。

レ・コン・ビン(2013年)

ベトナム代表で歴代最多ゴールという実績をひっさげて、2013年のシーズン後半に、ベトナムのソンラム・ゲアンからの期限付移籍で日本にやってきたベトナムの英雄。

「東南アジアの選手が果たしてJリーグで通用するのか?」という懐疑の声も聞かれる中、デビュー戦から存在感を発揮。初スタメンとなった第34節V・ファーレン長崎でJリーグ初ゴール、初退場を記録するなど、リーグ戦で2ゴールを挙げています。セットプレーのキッカーも務め、「進撃の巨人」フェホとのコンビは、相手チームの脅威となりました。

ベトナムではまさしくスーパースターで、彼がゲストコーチとして参加した、2013年のベトナムフェスでの子供向けサッカースクールに、娘をダシにして中に潜り込んだのですが、一般のベトナム人はもちろん、イベントのベトナム人スタッフまで仕事そっちのけでサインや写真をおねだりするほど。日本でいえば全盛期の長嶋茂雄さんクラスの人気っぷりでした。

ちなみに、そのフェスでボールが顔付近にぶつかって泣いてしまった娘に、優しく声をかけてなぐさめてくれたのもレ・コン・ビンでした。おかげで娘は、現在立派なクソサポーターとなり、先日も自宅近くに新しくできたレストランに行った際、飲めないくせに「ここは美味い。さすがサッポロビールを出しているだけある」と申しておりました。たぶん手遅れだと思います。

翌2014年シーズンも引き続き札幌でプレイする方向で話が進んでいましたが、年が明けてから事態は急転直下。クラブの中の人すら「寝耳に水だった」という、ソンラム・ゲアン復帰の発表により、彼の日本でのキャリアはわずか半年に終わりました。その経緯があまりにも突然かつ不可解だったことから、今でも彼自身にあまりいい印象を持っていないサポーターも少なくないかと思いますが、あそこまでのスーパースターとなると、本人の意思だけではどうにもならない事情もあったのだろうと、個人的には推測します。

その後、2015年にベカメックス・ビンズオンに移籍、2016年までプレイしたあと、31歳という若さで現役を引退。2017年に来日した際は、宮の沢のクラブハウスへも訪れています。

一方で、短い期間での在籍であっても、彼の残したものは大きく、「東南アジアの選手はJリーグでも十分通用する」という実績に加え、アジア市場の開拓という潜在能力を見せつけたことで、Jリーグのアジア戦略も加速。ベトナム、タイを始めとするJリーグ提携国の国籍を持つ選手は外国籍枠に含めないという、いわゆる「提携国枠」が誕生するきっかけにもなりました。この働きかけを行ったのが、ヨシカヅ・ノノムラ・ハラグーロという謎の人物であるといわれていますが、これが、その後のチャナティップやスパチョークの活躍につながっています。まぁその間には、ススキノに遊びに来ただけのステファノとかもいましたけど。

もちろん、その背景には彼の獲得における「東南アジアとの交渉」のノウハウが良くも悪くも生かされており、今では「なんかコンサドーレにお願いすればタイの実力者と話ができるらしいよ」という、なんだか裏社会の存在みたいになっているらしい。

ちなみに、初代・「試合でパンツを後ろ前に履いた19番」がこの人です。

(※2022/12/20追記:パンツじゃなくてシャツでした。レ・コン・ビンさんのパンツの名誉のために、訂正してお詫びいたします)

白井康介(2018年~2020年)

田中パウロ淳一(松本山雅)、三浦弦太(ガンバ大阪)や阿部浩之(湘南ベルマーレ)、さらには競技の垣根を越えて中田翔(巨人)や森友哉(オリックス)各選手に共通する、「大阪桐蔭ヒゲ」が特徴の快足ウインガー。大阪桐蔭出身の選手がみんなどうしてああいうヒゲを生やしてるのかは不明ですが、アレなんですかね。大和平野にヒゲもそびえ立つんでしょうかね。その大阪桐蔭時代の通称は「浪速のロッベン」。

「浪速」というのは、古くは律令制の摂津国西成郡と東成郡一帯を指す地名ですが、一般的に「浪速の」といえば、大阪出身、あるいは大阪を拠点として活躍する人を指す修飾語として用いられ、サッカー界では「浪速のイタリアーノ」と呼ばれた本並健治、「浪速の黒豹」と呼ばれたパトリック・エムボマなどが代表例、サッカー界以外でも「浪速のモーツァルト」ことキダ・タロー氏や「浪速のジョー」こと辰吉丈一郎氏、「浪速のロッキー」こと赤井英和氏、「浪速のシューマッハ」こと22歳ニート(埼玉在住)あたりが有名です。余談ですが、北海道にも常呂郡佐呂間町に「浪速」という地名が存在します。北海道の地名には、開拓時代に内地から移住してきた人が、元々住んでいた地名を使用することも多いので、この浪速も大阪からの入植者が居住して地域なんでしょうかね。少し調べてみたのですが、その由来はよくわかりませんでした!

いかがでしたか? いや、白井さんの話でしたね。2018年に愛媛FCから移籍加入。シーズン当初こそあまり出番を得られなかったものの、後半から存在感を発揮。交代での出場が主でしたが、ホームFC東京戦で同点に追いつく強烈なミドルシュートを叩き込むなど、数字以上の活躍を見せました。2019年になると、ジェイ・ボスロイドという明確なターゲットができたことで、彼の特徴である伸びのあるクロスが生きるようになってくると、徐々に出番が増えてきます。2019年は35試合(リーグ戦23試合、カップ戦12試合)、2020年も30試合(リーグ戦27試合、カップ戦3試合)に出場しました。

右サイドにルーカス・フェルナンデス、左サイドに菅大輝という不動のウイングバックがいたため、スタメンに名を連ねる機会こそ少なかったものの、左右どっちのサイドもできて、また守備固めと攻撃したい時両方のタスクをこなすことができる選手でしたから、ベンチに控えているととてもありがたい存在だったのですが、やはり「スタメンで勝負したい」という意識が強かったのか、出場機会を求めて2021年にJ2だった京都サンガに期限付き移籍。京都をJ1昇格に導くと、翌年京都に完全移籍しJ1残留に貢献しています。

二代目・「試合でパンツを後ろ前に履いた19番」でもあります。

小柏剛(2021年~)

最後は現役の19番。2021年に明治大学から加入しました。高校時代は大宮アルディージャのユースに所属、プレミアイースト得点王に輝いた実績もあり、大宮も鮭としての帰還を望んでいたのでしょうけど、生まれた川に戻る前に札幌がかっさらった格好です。黒幕はたぶんS木T樹さんだと思います。

2020年も特別指定選手として試合出場しており、その当時は「スピードは超一級品だけど、フィジカルコンタクトに難あり」という感じでしたが、正式加入後はきっちりその弱点も克服、ルーキーながらも主力としてリーグ・カップ合わせて34試合に出場、7得点を挙げる活躍を見せました。

2年目となった今季、さらなる飛躍が期待されましたが、ケガや体調不良による欠席が多く、「復帰報道が出たと思ったら次の試合に名前がない」という、HUNTER×HUNTERの連載みたいな状況が続き、13試合2得点という不本意であろう成績に終わっています。中でも多かったのが肉離れ。ただでさえ治りにくいケガですが、復帰してはまた同じところを傷める…という状態が続き、これが試合に出られなかった大きな原因となっていました。筋肉系のトラブルはスピードタイプの選手にはどうしてもつきものなのかもしれませんが、日本のスピードスターといえば真っ先に思いつく前田大然選手にはあんまりそういう話を聞かないし、同じく加速力を武器にするチームメイトの中島大嘉選手も、あんまり肉離れた話は今のところ聞きません。まぁタイカの場合肉離れてなくてもあんまり試合で見たことがないというのはありますが、彼らの共通項を考えるに、とりあえず思いつくのは「坊主頭」ですので、オガシもまずは髪を剃ってみるのがいいかもしれませんね。

結果としては「2年目のジンクス」に苦しんだシーズンとなりましたが、川崎フロンターレ戦での逆転ゴールのように、ここぞという時に決めたゴールはやはりエースストライカーならではのもの。チームも彼がいるのといないとでは戦い方も変わってしまいますし、せっかく掴んだ日本代表のチャンスもケガで棒に振ってしまいましたから、まずは「ケガをしにくい身体作り」を目指してほしいものですね。とりあえず、髪を剃ってみるとかして。

なお、三代目にして当代・「試合でパンツを後ろ前に履いた19番」です。

おわりに

以上、歴代の19番から印象に残っている選手を紹介しました。サッカーにおける背番号というのは、もともとはポジションを表すものだったので、現在でもその名残で、1~11番までは、そのポジションを担う選手がつけることが多いです(1番はGKのみという制約もあります)。

一方、逆にそれ以降の番号は、特にポジションに縛りがあるわけではなく、さらにチーム事情で必ずしもつけたい番号をつけられるわけではないのですが、歴代の同じ番号の選手を並べて見ると、意外とそれぞれの選手に共通点もあるようなないような感じがしますね。なんでパンツ逆に履く人ばっかりなのかはわかりませんが。

来年は小柏選手がそのまま19番をつけるのか、それとも別の選手がつけるかわかりませんが、これからも「札幌の19番」に注目ですね!